今日の銭湯学

先日「銭湯の壁画にはなぜ富士山が多いのか?」というテーマで、
記事を書かせていただきました。
その際に銭湯の壁面に絵を描くという文化そのものの発祥が、
大正元年増築した「キカイ湯」にあるとかきました。
※詳しくはコチラ※
その際に、
>興味深く読ませていただきました!
>思ったより最近?の話なんですね…
>何か江戸時代くらいからずっと富士山だったのかと思ってました…
こういったコメントをTwitter上でいただけましたので、今回は江戸時代の銭湯事情を解説するとともに、
江戸時代の銭湯に壁画などが生まれなかったのかを仮説し、
まとめを書いて行きます。
江戸時代の銭湯壁画には何が記載されていたのか?
江戸時代の銭湯壁画について、早速結論から書いてしまいますが、
実は浴槽の部分の壁面になにか絵を書くという文化は、
全くなかったと考えられています。
ではなぜ壁面に絵を描く文化がなかったのか?
何故江戸時代の銭湯には絵を描く文化がうまれなかったのか
江戸時代頃の銭湯は、現代の銭湯とは違い、水も、湯を沸かす資源も高額であったそうです。
その折角沸かした湯を冷めづらくするために、
湯舟への入り口を狭く、そして低くしていた様です。
それは「柘榴口(ざくろぐち)」と呼ばれ、
屈みながら浴室へ入っていったそうです。

そんな浴室内の明かりは入口から入る筈かな光のみで薄暗く、
壁面になにか絵を描くという発想も、
当時の銭湯経営者には無かったものと考えられます。
明治から大正にかけて、
銭湯の様式も変化していくなかで、
「柘榴口」も減り、解放感のある浴室が作られたことで、
壁面の利用法を考えるに至った。
そうと考えると、
ボイラーをいち早く銭湯に取り入れていた「キカイ湯」さんが、
大正元年増築の際に壁画を思いついたのも、
必然であったように感じますね。
豆知識
柘榴口(ざくろぐち)
この言葉の語源は諸説ありますが、
入口が低く、屈み入る(かがみいる)必要性があったことから、
屈み入るから鏡入るに転じ、
語呂遊びの過程でざくろぐちになったという説があるそうです。
また前述した浴室内の壁面に絵がなかった代わり、
となるか分かりませんが、
江戸時代の銭湯での柘榴口は、
各銭湯が競って装飾を豪華にしていた様です。
本日は以上

湯屋神様と私/God&Me
本日もありがとうございました。
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