【銭湯学】江戸時代の銭湯には、なんで壁面に絵を描く文化がなかったのか

2019年12月17日火曜日

銭湯学/入浴学

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今日の銭湯学


先日「銭湯の壁画にはなぜ富士山が多いのか?」というテーマで、
記事を書かせていただきました。

その際に銭湯の壁面に絵を描くという文化そのものの発祥が、
大正元年増築した「キカイ湯」にあるとかきました。
詳しくはコチラ

その際に、

 >興味深く読ませていただきました!
>思ったより最近?の話なんですね…
>何か江戸時代くらいからずっと富士山だったのかと思ってました…

こういったコメントをTwitter上でいただけましたので、
今回は江戸時代の銭湯事情を解説するとともに、
江戸時代の銭湯に壁画などが生まれなかったのかを仮説し、
まとめを書いて行きます。

江戸時代の銭湯壁画には何が記載されていたのか?

江戸時代の銭湯壁画について、
早速結論から書いてしまいますが、
実は浴槽の部分の壁面になにか絵を書くという文化は、
全くなかったと考えられています。

ではなぜ壁面に絵を描く文化がなかったのか?

何故江戸時代の銭湯には絵を描く文化がうまれなかったのか

江戸時代頃の銭湯は、現代の銭湯とは違い、
水も、湯を沸かす資源も高額であったそうです。

その折角沸かした湯を冷めづらくするために、
湯舟への入り口を狭く、そして低くしていた様です。

それは「柘榴口(ざくろぐち)」と呼ばれ、
屈みながら浴室へ入っていったそうです。

そんな浴室内の明かりは入口から入る筈かな光のみで薄暗く、
壁面になにか絵を描くという発想も、
当時の銭湯経営者には無かったものと考えられます。

明治から大正にかけて、
銭湯の様式も変化していくなかで、
「柘榴口」も減り、解放感のある浴室が作られたことで、
壁面の利用法を考えるに至った。

そうと考えると、
ボイラーをいち早く銭湯に取り入れていた「キカイ湯」さんが、
大正元年増築の際に壁画を思いついたのも、
必然であったように感じますね。

豆知識

柘榴口(ざくろぐち)
この言葉の語源は諸説ありますが、
入口が低く、屈み入る(かがみいる)必要性があったことから、
屈み入るから鏡入るに転じ、
語呂遊びの過程でざくろぐちになったという説があるそうです。

また前述した浴室内の壁面に絵がなかった代わり、
となるか分かりませんが、
江戸時代の銭湯での柘榴口は、
各銭湯が競って装飾を豪華にしていた様です。


本日は以上


話してる人

湯屋神様と私/God&Me


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銭湯ガイドマイスターを目指して日夜勉強中&銭湯通い。 入浴とは全く違う職種でパニック障害とウツを併発し休職。 健康を取り戻す&社会復帰のため、 銭湯入浴を日常生活に取り入れ回復に努める傍ら、 オススメの東京銭湯を中心に紹介

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